StarWalker’s diary

映画スター・ウォーズに関する独自の考察、謎解き、分析、最新作のストーリー予想、最新情報を発信するブログ

『帝国の逆襲』と『最後のジェダイ』〜2つの三部作中間作の評価を考察する〜

 早いもので『スター・ウォーズ/最後のジェダイ』が昨年12月公開されて、既に10か月が経ちました。『最後のジェダイ』はスター・ウォーズ映画史上といってもいいくらいに、これまでの作品以上に評価が割れた作品になってしまったわけですが、同じ三部作の2作目として1980年に公開された『帝国の逆襲』は、今ではスター・ウォーズ映画史上の最高傑作と評する人も多い作品です。今回は、その『帝国の逆襲』と『最後のジェダイ』の評価を比較し、両者の違いを考えてみました。 

・本記事で紹介する『帝国の逆襲』を生んだ映画プロデューサー、ゲイリー・カーツ氏は先月23日に78歳で亡くなられました。故人のご冥福をお祈りします。

 

《!以後、『最後のジェダイ』のネタバレ含みます。未鑑賞の方は読まないでくださいね》 

  

 

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はじめに

 昨年12月に公開された『スター・ウォーズ/最後のジェダイ』はファンそして批評家の間で評価が真っ二つに二分していたのは、まだ記憶に新しい。たしかに評価が二分するのは十分に理解できる作品だと思っている。私の感想と評価は公開後にこちらの記事(『スター・ウォーズ/最後のジェダイ』はなぜ駄作なのか?私の率直な感想【ネタバレ】 - StarWalker’s diary)(『スター・ウォーズ/最後のジェダイ』はなぜ傑作なのか?私の率直な考察【ネタバレ】 - StarWalker’s diary)に書いて、様々な意見やコメントを頂いた。

 三部作のミドルムービーとして、どうしても『帝国の逆襲』と比較して語られてしまう本作だが、これらの二つの映画の評価をあたらめて振り返ってみたいと思う。というのも、『帝国の逆襲』も公開直後は評価されなかったという共通点がありながら、のちにシリーズの最高傑作とまでに評価されるようになった。

   『最後のジェダイ』と『帝国の逆襲』には、確かに公開時の評価に共通点がある一方で、両者にはっきりとした違いもある。

    それは『帝国の逆襲』では、これを最初評価しなかったのは批評家たちのほうであり、批評家の間で意見が二分していたのだが、時間がたってから徐々に批評家も、『帝国の逆襲』を評価し始めた。それに対して、『最後のジェダイ』はどちらかと言うと逆で、批評家は大絶賛していたが、前作をみたファンの間で反対意見が出て、意見が二分した

『帝国の逆襲』

『帝国の逆襲』公開時の評価

    今では最高傑作と言われる『帝国の逆襲』だが、実は公開当初は『スター・ウォーズ』の時ほどの称賛を送った批評家は実はかなり少なく、批評家たちの間では、特に良くもなく悪くもなくという評価だった。また、ある程度評価していた人の間にも、熱烈な称賛というものはなく、逆に駄作とみた人は徹底的に駄作と言い切っていたのである。

 まずは『帝国の逆襲』の公開当時の主な批評を振り返ってみたいと思うが、当時の批評で賞賛を送ったのはシカゴ・トリビューン、ヴァラエティくらいだ。 

 流血と魅力、スぺクタルと無邪気な喜びが調和した、完璧に近い映画だ。

  • ヴァラエティ(ジェームズ・ハーウッド)

『帝国の逆襲』は『スター・ウォーズ』の続編に相応しい。熟達された技術とキャラクター描写は前作と同等で引けをとらない。(出典:The Empire Strikes Back – Variety

素晴らしい続編。緊張と映像的に目もくらむようなSFメロドラマが、緻密に冒険を作り、感情にそっと入ってくる。(出典:WashingtonPost.com: 'The Empire Strikes Back'

 

 次に、不評とした批評家の記事を見てみると、ワシントン・ポスト紙は映画としては良いが、オリジナルには及ばないという穏やかな論調だが賞賛には遠い。さらに、ニューヨーク・タイムズはかなり辛口で、この同紙の辛口レビューは、現在ではスター・ウォーズの歴史を語る上では必ず取り上げられる批評家コメントの一つになっている。

 

これを良いジャンク・フードと呼ぶのは決して侮辱するつもりはない

プロット構成がなく、キャラクターの深堀のなく、感情的にも哲学的にも訴える点がない。

素晴らしいのは特撮と映像トリックだけで、そのうちのいくつかは遊戯的、創造的、かつ印象的だが、その他に関しては、ほかのSF映画同様の常套的な物に成っている。(出典:WashingtonPost.com: 'The Empire Strikes Back'

『帝国の逆襲』は酷い映画ではない。いい映画だ。しかし『スター・ウォーズ』には及ばない。新鮮でもなく、可笑しくもなく、驚きもなく、ウィットもない。(出典:'The Empire Strikes Back' Strikes a Bland Note

続編はオリジナル(『スター・ウォーズ』)の魅力を失った。

スター・ウォーズらしい冒険心はなく、オリジナル(『スター・ウォーズ』)ほど楽しいものではない。オリジナルからの洗練、豊かさ、深みなどを増したものは不適切という以前にあまりない。(出典:The Empire Strikes Back - WSJ

  • シカゴ・リーダー紙

大部分は足踏み状態だ。キャラクターは特殊効果においてかれ、アクションの多くが無意味に見えて、どこにも導かないものだ。

    

 これらの評価を見ていくと、面白いのだが、例えば、ワシントン・ポストの批評なんかは、そのまま『最後のジェダイ』にも言えそうな気がするし、シカゴ・リーダーのコメントも同様だ。

   また、『帝国の逆襲』では、結局、反乱軍と帝国軍の戦いには進展がなく、劇中、ハンとレイアは逃げ回っているだけで、物語が進展していないではないか!という声もあったことがわかる。

 逆に特殊効果は、予算も多く費やされた分『スター・ウォーズ』より圧倒的に良くなっていることは誰もが認めているが、それに対するドラマ部分はあまり評価されていなかったことがわかる。つまり、物語を評価できる、できないが映画全体の評価を分けていた。

 このように『帝国の逆襲』への批評家たちの見方は二分していたのだ。決して、批評家たちに最初から傑作と言われていたわけではないことがわかるだろう。

 

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1980年当時のファンの反応

   では、一方で、観客の受け取り方はどうだったのだろうか?今のようなインターネットがある時代ではないので、これを知るのは難しいのだが、当時はSF雑誌上に寄せられた手紙などを雑誌上のコラムに掲載しており、ここを読むと一般の観客の映画への反応が分かる。ただし、あくまでコラム寄稿するのはファンの中のまた一部であるので、その点は考慮すべきだろう。

 色々調べてみたが、一番参考になりそうなところで、当時一番有名だったスターログ紙を見てみたい。スターログ紙は、1976年に創刊されたアメリカの月刊SF映画雑誌で、2009年に停止するまで刊行された。ちょうど『帝国の逆襲』公開当時の1980年代に一番最盛期を迎えていた雑誌と言える。

 幸運なことにバックナンバーがオンライン上で閲覧(Starlog Magazine : Free Texts : Download & Streaming : Internet Archive)できるので、さっそく1980年当時のものを見てみた。それにしても、このころファンが考えていたことは本当に面白く、今ではそこまで言うかということも多いのだが、ファンというは時代、世代が変わっても同じようなことで議論をするものだと笑ってしまうものが多い。いくつか典型的な例を挙げてみよう。

ヴェイダーはルークに嘘をついているに違いない。自分の側に引き入れたいからだ。

ハンが冷凍されたままなのは納得いかない。殺されるか救出されるかまで描いて欲しかった。

レイアはルークみたいないい奴がいるのになんでハンを選ぶのか?ルークとくっつくべきだろう! 

小惑星でミレニアム・ファルコン号がなめくじに食べられるが、ハン達が重力がないのに着陸して歩き回っているのはおかしいんじゃないか。

ハンがレイアに言う「知っているさ」って何?納得いかないんだが。

ヨーダがいうもう一人の希望って誰?

 という感じだ。あとは、レイアとハンが逃げ回っているのに、ルークはダゴバで数週間くらい過ごしていて時間が合わないがどういうこと?とか、今では本作が最高傑作と言われる所以となったクリフハンガーという終わり方についても、これを良しと思わない人もいたようで、少なからずファンの評価も二分していたのが伺える。 

 『帝国の逆襲』では、スター・ウォーズがこの世の中に生まれて、たった2作品目だ。したがって、先に紹介したファンの『帝国の逆襲』に対する評価や意見は、純粋に物語に対する疑問や困惑が主なものであった。

 我々は、すでにエピソード5の後の歴史をすでに知っているわけだが、当時、ヴェイダーがルークの父親と告白されたり、ルークとレイアがヒーロー、ヒロインだと思っていた観客からすれば、ハンとレイアの逃避行の行先も、炭素冷凍されたハンや、中途半端に終わった物語も、観客はどう捉えたらいいか分からなかったというのが正直な気持ちだったに違いない。

The Making of the Empire Strikes Back: The Definitive Story Behind the Film

The Making of the Empire Strikes Back: The Definitive Story Behind the Film

 

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『帝国の逆襲』の新しさ 

    先に、物語に対する評価が映画全体の評価を分けていたと書いたが、『帝国の逆襲』は三部作が完結することにより評価を上げた映画だ。三部作を通して見た時に、二作目のミドルムービーとして不朽の名作になったと言える。これは、すなわち、三部作が完結することで『帝国の逆襲』の物語の位置づけが明確になり、完結したからに他ならない。

    これまで映画の中で結論をはっきりさせずに次回に持ち越しと言う終わり方をするような映画はなかったわけで、当時の評価は無理もないだろう。そもそも三部作の娯楽大作というのは今でこそ一般的だが、当時はスター・ウォーズが初めてだったのだ。

   たしかにシリーズものというのはあった。ジェームズ・ボンド猿の惑星ゴッドファーザー、ロッキー、男はつらいよ等、既にこれらの名作映画シリーズは存在していた。しかし、これらはあくまでシリーズとしての続編に続編をつなげていく話だが、三部作として最初から物語を構成し、そのために第2話を謎を残したまま次につなげるような構成ではないし、それぞれの映画が全て映画として一本にまとまっている。

    だから、当時の続編はパート2、だったり、続・とか、新・とかがタイトルについた。『男はつらいよ』『続・男はつらいよ』『新・男はつらいよ』『猿の惑星』『続・猿の惑星』『新・猿の惑星』のように。ロッキーはロッキー2、ロッキー3と続き、ゴッドファーザーはパート2、パート3という形である。

    イギリスのSF雑誌であるスターバースト紙は、特に『帝国の逆襲』の終わり方(いわゆるクリフハンガーという次に何が起こるのかを観客に知らせずに終わらせるやり方)について、以下のように批判している。

もし続編が翌週や翌月、あるいは遅くとも半年後にでも観られるのであれば、クリフハンガーな結末もいいだろう。だが、続きがどうなるのかを知るまでに一年半から三年も待たなければならないのであれば、ルーカスたちがしたことはいささかやりすぎたと思える。

 さらには、その理由を「映画の観客は固定的なものではないからだ」とも言っているが、これは、熱烈な固定ファン層ができてしまった今の時代から見ると的外れに聞こえる。だが、それを予想することすら当時は難しかったに違いないのだろう。

   今観れば『帝国の逆襲』はミドルムービーとしては完全に機能しているし、今のスター・ウォーズ伝説はまさにここから始まったと言えるわけだが、公開当時、観客の認識は、この映画をあくまで「スター・ウォーズ2」として観ていたわけだ。

    勧善懲悪のスペースアクション映画でしかなかった『スター・ウォーズ』に対して、その世界観を深く描き、哲学的、神話的な物語にしたのは、『帝国の逆襲』が単に『スター・ウォーズ』を引き継いだ宇宙を舞台にした娯楽大作でなかったからだった。    

    『スター・ウォーズ』は、騎士が姫を救うという王道の物語であり、帝国と反乱の宇宙戦争であって、ジェダイやフォースは登場していたがあくまでサブプロップとしての役割であった。だが『帝国の逆襲』によってフォースはさらに哲学的で単なる超能力でない神秘的な奥深い力であることが描かれた。『帝国の逆襲』はダークで、子供には恐いシーンもある。執拗に迫るダースは、簡単に帝国将校を制裁するし、3PОはバラバラにされ、ルークは腕を切られる。明るく楽しいスぺクタルものであった『スター・ウォーズ』とは全く違う映画だったわけだ。

 こう考えると『帝国の逆襲』公開時の評価の基軸が、前作で革新的だった特殊効果と物語を引き継いだ続編として相応しいかどうかという前作との比較評価になるのは当然だ。このうち前者の特殊効果については『帝国の逆襲』の時は、オリジナルと比較し絶賛されたが、続編としての物語の良さは、評価が分かれ、旧三部作が『ジェダイの帰還』をもって1つの三部作として完結した際に、物語面での評価を高めたことで本作のミドルムービーとしての評価は一段と高くなった。

    そして、更に言えば、この『帝国の逆襲』の評価は『スター・ウォーズ』シリーズが伝説となるに伴い、ミドルムービーの呪縛を生むことになってしまったわけだ。つまり、三部作の中間では、物語に捻りや紆余曲折を挿入し、観客をあっと言わせる意外な展開があるべき、というような感じだろう。そして、観客そしてファンもそれを期待するようになってしまった。逆に言えば、それだけ『帝国の逆襲』がもたらした衝撃は大きかったということだろう。

 

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『最後のジェダイ

絶賛から始まり・・

    さて、代わって最後のジェダイの方はどうか?これが面白いのだが、多くの批評家は大絶賛している。まずはこれらの批評を見てみたい。評価が高い点を見ていくと、一つ共通点は、スターウォーズを新しいものにしたという評価と、新しいものにしながらオリジナルの持っていたスターウォーズの精神を引き継いでいるという点で評価が高い。メディアは賞賛を送っている方が総じて多く、評価していないメディアもあるが、『帝国の逆襲』に比べると評価する方が圧倒的に多い。

 

コミカルなドラマティックな目的の大きな成功、エピソード8は過去十年間になかったSFサーガのように輝く

  •  ガーディアン

30年後の子供たちは、このライアン・ジョンソンの続編に触発され、観客たちに再び提示することになるだろう。ハードコア・ファンが喜ぶイースターエッグもある一方で、最後のジェダイはルーカス以後、独自のビートにのって自由に踊っている初めてのスター・ウォーズ映画だ。(出典:Star Wars: The Last Jedi in-depth fan review: 'I finally got to see my dreams come true' | Film | The Guardian

  • ロサンゼルス・タイムズ

最後のジェダイは、感情、興奮、驚きを、再びスター・ウォーズに与えた 

最後のジェダイは、魔法と神秘を抱き込んだ映画 

中年以後の失望、あれこれと物事のもつ意味や価値について考えることについてを描いたSFアクション狂想劇はないだろう。映画の底に流れる魅力的な哀愁と物悲しさこそが、『最後のジェダイ』を特別なものにしている要素だ。 (出典:‘Star Wars: The Last Jedi’ gets a tour de force performance from Mark Hamill - SFGate) 

  逆に、新しさが受け入れられないなら評価は低くなるし、必ずしもスターウォーズ精神を引き継いでないと考えれば評価は下がるだろう。だが、面白いのは、これらの批評家も「挑戦は評価するが結果は評価できない」というスタンスに近く、後に出てくるファンの反発に比べたら辛辣な批評というものではなかった。 

 

ファンにとっては、スター・ウォーズの次回作はつねに最高のものであってほしいと願っている。最後のジェダイは、実際そうなる可能性があるように思われた。(中略)市場の期待の高さとは反対に、ライアン・ジョンソン監督の努力には最終的には失望であった。

  • ハリウッド・レポーター

この映画は、長すぎるタグみたいだ。登場人物の多くは必要な説明なしに、あちこちへと行きすぎで、彼らの影響力、目的、性格の切れ味をうまく活用するべきだった。(中略)しかし、ライアン・ジョンソン監督の作品へのアプローチには、シリーズにとって一番大切な、映画とフランチャイズを死なせないための、作品を貫く新鮮さと情熱がある。

  •  グローブ・アンド・メール

ぬいぐるみ仕立ての動物や、成熟しつつある敵役、うなだれたヒロイン、くぐもったユーモア、映画は(スター・ウォーズという)文化的に大きな遺産の世界観を広げようとしたが、この三部作はバランスを維持することに苦悩している。

 

 こうしてみると、『最後のジェダイ』の評価のうち、評価した批評家は、これまでのジョージ・ルーカスによるスター・ウォーズマンネリズムからの脱却についてその挑戦と結果を評価しているわけであり、また評価が低かった批評家は、その挑戦は評価するものの結果は評価できないという形で、評価が分かれていると言える。

分かれたファンの評価

 そして、ファンの評価の基軸もおそらくこれと変わらないのではないかと思う。すなわち『最後のジェダイ』が打破しようとしたものを好むか好まないか、それがまず最初の受け入れ可否の一線になっている。だが批評家の中では、結果は良しとしないながらも、ライアン・ジョンソンのアプローチを挑戦として肯定的に捉えた人が多かった一方で、ファンの間では、そもそものライアン・ジョンソンの目指した方向に対して反対する声が強かった点が、大きく批評家とファンの評価の大きな差になって現れたところがあるだろう。

 私は、これは致し方ないと思う。というのも、批評家はあくまで映画の批評家であって、スター・ウォーズ・ファンではないだろうし、ファンというのは、これまでのマンネリズムやシリーズの定型に愛着があるからこそファンなのである。

 『最後のジェダイ』は既にエピソードとしては8作目のスター・ウォーズだ。スピンオフを入れれば9作目だ。今は、すでにスター・ウォーズは巨大なフランチャイズとして成立した時代である。確かにシリーズはマンネリ化するものだ。だから、製作陣はマンネリズムを打破する方向を試そうとした。『フォースの覚醒』で一度リブートに成功したシリーズを、今度は独自の路線で継承しようとした。

 ディズニーとルーカスフィルム側に勝算があったかは正直私はわからない。むしろ、勝算はなくともリスクをとって挑戦をした部分もあったかもしれない。あるいは、そこまで考えていたからはわからないが、何か違うものを作ってくれることをライアン・ジョンソンの作家性にかけて彼を起用し、作品作りに関しては彼にやりたいようにやらせてみた。そして、ライアンは、彼は彼で自分のスター・ウォーズを作ったというだけのことかもしれない。

   いずれにせよ、結果的にはファンが求めるものは異なっていたわけであり、つまり『最後のジェダイ』の評価は、供給側が需要側のマーケティングに失敗した結果という構図であり非常にわかりやすい。

 

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新三部作は何を目指すべきだったのか?

時期尚早?ライアン路線

 ここからは私の意見を書く。『最後のジェダイ』が型破りだった点は多い。これまでお決まりだった「悪い予感がする」という台詞は一見ではわからないドロイドの台詞に登場させ、回想シーンもシリーズで初めて登場し、シス対ジェダイライトセーバー戦はない。また、神という概念が存在しなかったスター・ウォーズ世界において、初めて神という言葉を台詞に登場させた。

 このようなこれまでのフォーマットに縛られない『最後のジェダイ』は評価が分かれる要素が多分にあった映画だったわけだが、ライアン・ジョンソンのこのアプローチは、新三部作の中間作であるエピソード8では、まだまだ早かったと思う。

 私は、ディズニーは、新三部作でより安定したスター・ウォーズフランチャイズを築くための足場固めとするべきだったと思う。つまり、ライアン・ジョンソンが目指そうとしたマンネリズムの打破路線でなく、あえて真逆の路線、完全なシリーズ化路線、極端に言えば、打破でなくてマンネリ化させてしまえ、という路線スター・ウォーズを作ってみたらどうか、と思ったのだ。

登場から40年の歴史

 ここで、あらためて「スター・ウォーズ」というブランドを振り返ってみると、「スター・ウォーズ」は、これだけ巨大フランチャイズでありながら、他の映画シリーズと比較して見た場合に、ある特殊性がある。

   というのは、「スター・ウォーズ」はもはや大作シリーズでも、途中休止時期がありながらも、すでに40年近く続いている映画シリーズになっている一方でまだ映画作品としては、正史実写8作品、スピンオフ、その他を含め計11作品しかない。

 『男はつらいよ』は誰でも知っている日本の国民的映画シリーズだが、1969年に映画第1作が公開され、1995年まで30年近く全48作が公開され、世界最長の映画シリーズ(作品数)としてギネスブックに認定されている。

   1977年に登場して2018年を続いているスター・ウォーズ』は、登場からの歴史はすでに『男はつらいよ』を上回っているのだ。しかし、公開された作品数では寅さん48作に比べればまだまだ4分の1で全然及ばない。

 また、同じく有名なジェームズ・ボンドの『007』シリーズは、1962年から50年以上続いている。スター・ウォーズ』は『007』シリーズに準ずる長さを持っている一方で、作品数は『007』シリーズの26作品に対して半分に満たない。

 つまり、他の人気映画シリーズと比較して、登場してからの歴史は長いのに、それに比べて作品数はまだまだ少ないのが「スター・ウォーズ」の特徴だといえる。

長寿映画シリーズに倣う

 長寿映画シリーズというものは、その人気を支えるものに、その映画シリーズ独特のフォーマット(定型)というものがある。

 例えば、『男はつらいよ』は物語のパターンはいつも同じである。冒頭は寅さんの夢から始まり、旅先でマドンナに会って仲良くなった寅さんが柴又が恋しくなって帰ってくる。マドンナに恋した寅さんにとらや一同がざわざわすると、マドンナもとらやに現れる。二人の間に様々な出来事が起きるが、結局、寅さんは失恋し旅立つ。ラストは、寅さんが威勢よく旅先で的屋の啖呵売を切るエンディングになる。

 『男はつらいよ』は最初の10作でこのパターンを完成させ、次の10作で人気ドル箱シリーズの地位を確立させ、さらに次の10作以降円熟期をむかえた。

    だが、公開後20年経った42作目以降は、基本路線は踏襲しながらも、寅さん自身の恋愛よりも、光男が前面に出て、マドンナの後藤久美子と若者の恋愛が描かれることになる。つまり、円熟期をむかえたこれまでの寅さん自身の恋愛エピソードの定型を変化させて、シリーズを延長する路線に切り替えたわけだ。

 一方、ジェームズ・ボンドは、オープニングの音楽とガンバレルが有名だし、「ボンド、ジェームズ・ボンド」や「ウォッカマティーニ、ステアではなくシェイクで」と言ったお決まりの台詞があり、敵役美女を篭絡させ、任務を成功させ、Qの秘密道具、そして、ボンド・カーが登場し、映画のタイトルを登場人物の誰かが言う、という映画の「定型」が確立されていて、これが観客に安心感を持たせ、それが楽しいのだ。

 だが、やはりシリーズもマンネリ化してくるのは避けられない。そこで、2000年に入り、新たに6代目ジェームズ・ボンドであるダニエル・クレイグを起用した2006年の『007 カジノ・ロワイヤル』では、シリーズを一旦リブートさせ、これまでのフォーマットをリセットさせて再び成功して今に至る。この時のリセットは、ボンド映画のエッセンスを大切にしつつ、これまでのシリーズで確立していたスタイルをほぼ捨てたと言っていいくらいの再始動だったわけだが、この『007 カジノ・ロワイヤル』でさえ、公開から40年後、作品数で21作目でのリブートだ。

 

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スター・ウォーズが目指すべき路線は?

 長寿映画シリーズは、変えないものがあるからこそ、根強い人気も維持できる点がある一方でマンネリ化するのは避けられない。だから、どこかでマンネリ打破のためのリブートが必要になるのが、このマンネリ打破は、シリーズがある程度成熟した後でないと、なかなか上手くはいかない。というのは、変わらないことが良い間は、敢えて変える必要はないからだ。

    『男はつらいよ』では、シリーズが安定してパターン化してきた時、製作陣の中で思い切って変えるという話も出たらしい。だが、山田洋次監督は、この映画は敢えて変えないのが良いのだと考え、そのままシリーズは継続したことをインタビューで語っていた。タラレバ論なので、パターンを変えても寅さんの人気は続いた可能性も当然あるが、私はこの監督の判断は適切だったと思う。

 『男はつらいよ』では40作を超えて初めてパターンを変えたし、『007』でも20作を超えて初めてリブートをかけた。

 確かに『スター・ウォーズ』は、40年以上続いている。しかし、『最後のジェダイ』はまだ8作目でしかなく、ディズニー新三部作の2作目なのだ。これが、私が、ライアン・ジョンソンが『最後のジェダイ』で『スター・ウォーズ』の定型打破を目指すには、まだまだ早過ぎた考える理由だ。

 やはり、「悪い予感がする」というお決まりの台詞とか、ジェダイとシスのライトセーバー戦は見たいし、これまで『スター・ウォーズ』には無かった回想シーンを入れたり、フォースの扱いに踏み込むのも、まだまだ早すぎたと私は思うのだ。何故なら、ファンはまだそれを見たいと求めていた部分があるだろうからだ。つまり、それは僕らが安心して見れる「スター・ウォーズ」を見たいということだ。

    新三部作は、ディズニーにとっては、新しいスター・ウォーズだが、ファンにとっては、エピソード6からの続編だからだ。つまり、ルーク、レイア、ハンの物語のはっきりとした続きなのだ。だから旧作に思い入れのあるファンこそが待ち望んでいたものは大きいし、それだけハードルは高い。

 また、そもそもディズニーがスター・ウォーズをちゃんと作れるのかというファンの懐疑的な見方があるところからのスタートなのだ。これを払拭するには、まだまだ『フォースの覚醒』だけでは足りなかったことを考えると、ディズニーは、少なくともエピソード7から9の新三部作を作り上げてから、独自路線でマンネリ打破を目指すという方が良かったのではないだろうか。

まとめ

   ディズニー・スター・ウォーズがエピソード7からではなく、それこそ全く別の新スター・ウォーズとして再出発すれのであれば、やり方は如何様にもあきもしれない。ディズニーとルーカスフィルムもそれに気づいたからこそ、ライアンによる新しい三部作構想を進める気になったのだろう。

   ライアン・ジョンソンに始まる全く新しい三部作構想は、私はこれはこれで悪くないと思っている。だが、エピソード8で、ライアンの作品が受け入れられなかった結果がどう影響するかが不安だ。これは完全に結果論なことは百も承知だが、ライアン・ジョンソンはあくまでエピソード7から9には関わらずに、最初から全く別に三部作を作らせる方が良かっただろう。

   最近、ボブ・アイガー氏が「ペースが早すぎた」と認めていたが、作るペースだけでなく、ディズニーとルーカスフィルムは、いくつかの判断を誤った気がしてならない。

   ディズニーがスター・ウォーズを松竹の寅さんのようにドル箱シリーズにしたいならば、安易にその場その場で考えるのではなく、シリーズを継続するための新しい戦略も必要になるだろう。スピンオフ映画を作るのも、実写のテレビドラマを作るもいいだろう。だが、それ以上にスター・ウォーズを映画シリーズとして継続するには、少なくとも、まだ当分の間は、定型となるスター・ウォーズの型を作り上げて継続していくという路線の方が良いのではと思うところだ。

 新三部作はエピソード9がまだ残っている。まだ新三部作の評価は決定したわけではない、と思いながら新三部作の行方を見守っていこうと思います。